裁量・忖度は当たり前

「首相夫人の名前出れば、気配り当たり前」元理財局幹部

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「誰が相手方に関係しようが、きちんと法令に基づいて対応…」
処遇に差別なく、公平公正を前提に法令通りの公務を執行するのは
行政として当たり前だ。
だが、それはあくまでも行政の前提でしかない。
以前にも助役の談話として書いたが
法令通りの執行しかしないのであれば
決裁権を持つ高給取りの幹部などは不要であり
係長・主任以下、安月給のヒラ担当官だけで十分ではないか。
まさしく区役所の窓口係と、事務処理係だけで良いのである。
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課長、部長、審議官、局長、技監、事務次官
役が上がるほど決裁権、決定権は強くなり
強大な公権力が付与され、高級も保証される。
何のために、彼らはいるのか。
つまり、庶民が持ち込む相談案件や陳情、要望、申請などは
どれもが画一的で単純というわけではない。
法令だけの解釈では、機械的に処理できない案件が世には無数にある。
今後の公務執行に当たって
予期せぬ支障をもたらしかねない困難事例もある。
そうした場合には、超法規的とも思えるような
大胆な政治判断が求められる局面もある。
その場合、決裁権も決定権も限られた組合級レベルの職員だけでは
対処のしようがなくなり、公務の停滞を招く事態となる。
それ故に、多年にわたって様々なケースに直面し
業務経験を重ねてきたベテラン幹部が
その経験に鑑みて政治判断を下し、受諾許可を与えるのである。
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その結果が、J・ベンサムの説いた「最大多数の最大幸福」に基づき
国民に利益をもたらすならば、法令の拡大解釈や忖度も
行政目的に適った決断であり、正当な公務執行と言って良いだろう。
そして、これが今後の類似ケースに対処するための前例・実績、経験則となり
代々引き継がれていく。
そして、それらは他省庁、地方自治体などにとっても重要な参考事例となり
普及拡大して慣例となっていく。
公務とはこのように構築されて、完成度が高まっていくのであるから
明治政府以来、構築されてきた行政組織と官僚機構の層が厚く
行革で定員を削減したり、機構改革による統合・再編などが
容易にできない理由はそこにある。
かつて外務大臣のポストに傲り、大胆にも官僚組織を敵に回し
強引な改革を試みた田中真紀子が、逆に更迭の憂き目を見たのは
そうした初歩も理解していなかったど素人だったと言うべきだろう。
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日本は社会主義国ではない。
かといって、自由放任主義の冷酷なジャングル資本主義でもない。
双方を兼ね備えた修正資本主義である。
融通の利かない機械的な公務処理は、行政執行の基本ではあるが
それだけでは完璧ではなく、政治的判断によって
公務の欠陥や限界をカバーするのが体系的な構造であるから
場合によっては裁量や忖度があるのは、至って当たり前である。
ただし、前提はあくまで原則を貫くことにあるから
公式には「誰が相手方に関係しようが、きちんと法令に基づいて対応…」
と、発言するしかないのである。
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その意味では、政治権力や官僚の公権力を
目的のために利用しようとした籠池のおっさんは
道義的にはともかく、戦略の方向性としては間違っていなかったのである。
ちなみに、そうした裁量や忖度を換金し
私腹を肥やすのが、特亜の汚職役人である。